昭和43年7月18日 朝の御理解  ★

御理解第71節「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」



 この御理解から、私共今まで受けておった感じというか、これはえらいこう厳しゅう教えておられる場合もあるけれども、これは非常にこの、見易う教えておられる、そんな感じでしたですね。子供が病気をして、ね、枕元にちゃんとおるようなことじゃおかげにならんと。
 ままよという心になってすがってやればと仰るように、かわいい子供がもう難しかろうといったような状態の中にあっても、ね、それを捨てて神様へ向うてくればおかげになる。十二分な徳が受けられるといったようなふうに厳しゅう教えておられるのに、ひきかえてこれはそうではない、ね。
 子供がある者や、日傭とりは出てくるわけにはいかん。病人があったりすれば捨てておいて参って来ることはできぬ。まめなとき、ここへ参って信心の稽古をしておけと。けれどもこれ、何回もこうやって読ませて頂きよれば頂きよるほどですね、やっぱり難しい、ある意味で難しいなと。これはまあ、ちょっと聞きますとですね、まあひまな時信心の稽古をしておるちゅう。
 元気である時に信心の稽古をしておけと、というふうに聞こえますけれどね、確かにそうなんですけれども、ところがその、なかなか元気な時、暇な時はかえって信心ができんもの。もうそういう意味合いで皆さんはね、ひとつ日々信心の稽古に通うてみえておられるですけれども、参られないという事情がない中に稽古に通うて来ておるということがです、有難い、ね。
 お参りができんのだけれど、それを無理して参って来よる人はないでしょうが。なるほど、今まで、朝寝をしておったのが早起きをしてくるとその(?)ごとありますよ、皆さん。参られん事情はないでしょう。皆、言わば工夫をすれば皆が参られるということなんです。
 ですからこれは、結局はどういうことかと言うと、ね、皆がだいたいはお参りができるんだということ、自分の工夫ひとつでは。同時にここにその、後先にございますようにね、ここへは信心の稽古に来るのである、ね。よく稽古をして帰れと。また一番最後のところにもね、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと。
 ここんところがだいたい、私共の信心というものをですね、反省しなければならない、よく思うてみなければならないところだとこう思う。今の合楽の皆さんの場合なんかは、確かに稽古に通うて来ておられるという感じですね。これはまあ、余所の教会の方達が見たら、もうびっくりされるだろうと思うです。
 なるほど稽古に通うて来ておる証拠には、もう第一ですね、時間を切る人がない、ね。例えば学校にまいりますと、8時なら8時から開校だということになれば8時前には皆が、ほとんどの者がそろうて、勉強にかかりますようにね、現在の合楽の人は、もういわゆる稽古が始まるという前には皆このようにして揃うておられる、ね。
 これはもう、稽古する者のね、これが姿勢というか、態度でなからなきゃならんのですよね。同時に、さあ、御理解を頂くということになれば皆さんが、それぞれ、ね、興味を持たされる、教典を持たされる。そして、それをメモして帰られる。そこまではなるほど稽古に通うて来よんなさるなあという感じ、もう見事ですね。
 ところが果たしてです、ならどれだけ稽古になりよるかと。その稽古の実というものがどれだけ上がっていきよるか、なるほどおかげは受けよる。けれどもその、実際、信心の稽古、稽古の実というのがどれだけ上がっていきよるかと言うと、これはなかなか、この辺のところが私は、はあ、ここには信心の稽古に通うてくるところじゃとこう仰るけれども、稽古よりかもっと他に大きなものがあるのだという感じがいたしますね。
 おかげを頂かんならん、ついでに稽古をして帰ると。稽古に通うて来る、ついでにおかげを受ける。この辺が変わってくるといいんですね。実を言うたら信心はね、稽古ができればもうおかげはついてくることになってるです。そういう決まり、そういうシステムがある、ね。
 ですから本気で信心の稽古をさして頂こうと。皆さんの場合は、最近、本当にあのう、稽古に通うてくることが楽しみといったようなものを私が感じますですね、ここから、ね。そこでんなら稽古をしておるとどういうことになるかと。
 毎日、福岡の渡辺先生が日参されます。最近、東京におられました息子さんが夫婦が帰ってみえておられます。非常に頭のいい方であり、哲学、勉強しておられる。難しい宗教書なんかもあさっておられる。どうもお母さんがする信心は、何か低級な信心のように感じておった。お母さんとしてはどうかして合楽にご神縁を頂かせたい、どうかして信心をさせたいという、それも本人に悩みがあることを知っておるから、それが願いであったけれども、なかなかお母さんの言うことを、通りにならない。
 お取次ぎを頂いて、どうぞ子供達が、もう一人弟さんがおられますが、稽古になりますように、ね。一家をあげて信心の稽古ができますようにという願いをまあ持っておられる。ところがたまたま、先日、息子さん、まあお参りというよりも、ならあんたどんが参りよるところの先生に一遍、質問をしたいというので、お参りしてみえたのが初めて。で、昨日お参りしてみえてからですもん、帰りに願いですね、ここで毎月出ております新聞を買うて帰られとる。そして、あれを読まれてからですね、昨日、お母さんに言われること。
 お母さん、あなた方はこういう新聞を買うて来よる、毎月買うて来なさるが、何遍読みよるかっち。言われてみれば一遍しか読みよらん。お母さん、この新聞は大切な新聞ですよっち。読めば読むほどそれを感じる。私はそれを聞かせて頂いてから、渡辺先生が帰られてから、改めてまた、あの新聞を一部ここへ持ってまいりましてね、昨日はもうここで、暇になる度に何回も何回も読ませて頂いた。、読ませて頂けば頂くほどたいしたことが書いてあるなあ、その内容が、ね。
 人間として一番大事なもの。信心させて頂く者として一番大事なもの。いわゆる信心の稽古をさせて頂く者の、一番大事なこと。本気で信心の稽古をさして頂いておるなら、はあこれだと飛びつくようなことが書いてある。また、人間としての一番大事なもの。いや人間はここが分からなければ、もう絶対、幸せ、いわゆる幸福になれないという、大事なことが書いてある。
 なるほど読めば読むほど大変なことだなあと。お母さん、僕は信仰はできんかもしれんけれどもひょっとすると僕は合楽の先生の側にずっとついて回るようになるかもしれんよとこう言われた。どうぞ、まあどういうふうに御用にお使い回し頂くか分かりませんけれども、持ち場立場で、あの人はあの人でなからなければできない、例えばものを持っておるとするならばどうぞ、御用にお使い回しが頂けますようにと言うて、昨日、お母さんは願うて帰られたんです、ね。
 もう本当に私共が日々こうやって信心の稽古をさして頂いておるということであるけれどもです、本当に私は、私自身、昨日改めてですね、なるほど稽古不足だなということを感じました、ね。
 昨日だから、改めてまた、改めてここ2、3日の御理解を、ね、言わば復習をさして頂きました、ね。はあ、本当にこれはもう、本当に大変なことだなあと。という、感じがやはりいたします、ね。そういうものをです、なら皆さんが、なら稽古をして帰られる。まあ言うならば、こうして移して帰られる。
 昨日、次々とお参りをしてくる方達が、あそこでテープを聞いて、まあ移したり聞いたりして帰る。それをここから何回も何回も、そういう心持ちで聞かせて頂いておったら、今まで聞き逃しておったところ、今まで感じておれなかったところが、次々と分からせられる。
 信心の稽古の態度というのはこれだなと私は思うた。したら今朝からこの御理解71節を頂いたわけなんですよ。★そしたら、ご神前で私が頂きましたことは、昨日は回生ということを頂いた。「回生」というのは回ですね、「口」という字を二つ書いておる。「生」は生まれる、ね。まあ再び生を頂いたという意味でしょう、ね。死ぬはずのものが助かったという意味でしょう、ね。

 今日は回心、これは仏教の言葉じゃないでしょうかね。会心(えしん)というのじゃないでしょうか、回心と、心が回ると書く。あれは何て読むですか高橋さん。やっぱ「かいしん」。何か私、何かの本で見たことがあるような感じがするけれどね。
 今日はその、回心ということ。信心の稽古をさせて頂いておるとどういうことになるかと言うとですね、ね、いわゆる回心なんだ。回心ちゅうのは、心を改めるというあの改心じゃないですね。心が回る、今までの心ではない心。ですからね、もう完全にですね、物の見方、感じ方が変わってしまうのですよ。あれは心が変わるから心が回るから、これは確かに仏教で言うと大変難しい、何か意味があるんですよ、きっと。
 けれども今日、私はよく分かりませんからその程度にまあ、お話いたしますけれど、ね。例えばんなら、信心の稽古に通うてくる。例えば(?)におる息子さんなんかは、お参りというわけでもなかった。ただ、質問したいことを質問させて頂いて、そして、お母さんから聞いた合楽とは違うておったことを感じて、帰りに新聞を買うて帰った。そしたら、大したことが書いてあった。

 改めて、私自身もですたい、私もあれを、2回ほど、以前に構成する時、一回、私も読ませてもらいました。そして、出来上がってきてから一回読んどったから、まあいつもその程度である。けども、そういうふうに渡辺先生がそう言われてから、改めて、あれを言わば再度(からして?)頂く。
 そして、大した新聞ですよって言われてみてから読んでみたところがですね、隅から隅まで大した新聞だなあとこう思うた。どこがどうと言われんほどに大したことが書いてある。どういうことが書いてあるかと。信心の稽古をさせて頂く者の、もうポイントになるところ、これだと。いわゆる信心の稽古をさせて頂く者の1番大事なところ。人間としてのです、人間としての頂かなければならない、分からなければならない一番大事なところ。
 いや、ここを頂かなければ人間の幸福はありえないというようなところをあの新聞の中から感じとることができる。んなら、あの先月の6月号ですかね、あれは。6月の新聞だけがそうではなくてです、度々の場合であっても同じことが言えると私は思う。こうして日々、こうやって稽古に通うて来ておるけれども、もっともっとその稽古に対する真剣さというかね、取り組みというものが大事。
 同時に、ね、おかげはわがうちで受けよと仰る。おかげで、ね、実際問題、言わば習うたことが、応用問題になってその、応用問題を毎日実証しておるようなもの。ですからお互いがですね、信心生活とはそう思う、ね。信心生活とはね、信心を実習しておる。毎日が信心の実習なんだ。習うてきたことを、それをです、ね、実習する生活。それが信心生活だと、ね。
 そこからなるほどと思われる答えが出てくる。お願いをしておったらこういうおかげを受けた、ね。それも良かろう。けれども、信心の稽古をさして頂いて、実習さして頂いたらこういう、おかげになってくる。実際、教えられた通りにこういう答えが出てくるんだという、それがね、身に付いていかなければ信心の稽古にはならんのです。
 10年20年、信心の稽古をしておりますと言うてもです、ね、そういう稽古の実があがっていきよらんならばです、いわゆるおかげにならん。どういうふうなことになっていくかというと、回心である。心が回っておるかどうか。10年前の心も10年後の今日も、心がひとつも回っておらんとするなら、それはおかげ。それを教祖様のその言葉で言うとです、信心をしておれば一年一年ありがとうなってくると仰る、ね。
 10年信心しよってもです、有り難くなっていく度合いというものがひとつも変わっていないとするならば、それはあなたは信心の稽古に通うてきよるようであって、稽古にきよるとじゃないということになるわけです、ね。

 回生の喜び、ね、回心の楽しさと、ね。今までの人生というものが、すっかり、人生観というものがすっかり変わってしまう。昨日、私、回生ということを頂いておったが、昨日は本当に2人ともですね、年配もあんまり変わらない方ですけれども。もう毎日毎日をね、死ぬることばっかり考えておったという人がね、ここでお参りをさして頂いて、ね、2人とも初めて私に会って、そして、一人の方は約半日くらい、一人の方は2、3時間ここにおらしておる間に、ね、これは合楽の先生の言われる通りすれば、自分らも助かることができるぞというその、自信を得てですね、そのことのまあ途中、経過報告が昨日あったです。
 ここに参って来ておられる方の、ご親戚の方ですよ、一人は、ね。大変な財産家なんです。けれどももう、毎日毎日が死ぬることばっかり考えて、ね、そのためにまあ自棄酒っていうわけじゃないけれども、毎日お酒に浸って、お酒を飲み続けられ、ね、そして、口を開けば、(たっとくさん?)と2人きり、ね。死ぬることばかり。死にたい死にたいっちゅう、ね。
 いわゆるなるほど昨日、回生と頂きよったこれは回生の喜びというのはそういうことでしょうね。まあ死ぬ生きるとまではいかんでもです、ね、自分のその、言わば生きる希望というか人生観が変わってしまうというだけでも大したことですね。私は昨日それを聞かしてもらいながらね、おかげ頂かっしゃるばいと私は思うた、ね。何か大きなその、今あの、石ブームですかね、石を磨いて、あれを干渉する。あれが非常に流行っておりますよね、今ごろ。
 しかも中にその、梅花石とか菊花石とかというて、梅の花やら菊の花が出ているのが、大変な値打ちがあるそうです。その方はですね、大きな石の菊花石を持っておられる。そして、昨日、(たたんところ?)へ電話がかかってきてですね、明日の月次祭、昨日の、だから今日の月次祭のこと。明日の月次祭にはどうでも、合楽の先生にね、この石をお供えしたい。
 それがその、菊花石だった。したら奥さんの方が、もうそれよりかまあいっちょこの石の方が良うないですかってこう言われた。けれどもそれを聞きながら、その方がですね、思うたこと。まあ何と神ながらなことじゃろうかと思うたて。菊花という、菊の花といやあ、合楽の信心のシンボルのように言われておる。いわゆる回生の喜びをこの菊花石に表すわけでもなかろうけれどもです、その喜びをですね、どうでも合楽にお供えしたいと言うて、まあ主人が申しよりますという電話がかかってきた。
 もうそういうことになってまいりますとですね、惜しいものがなくなってくるんですよね、人間は。回心したわけなんです。心が回ったわけです、ね。死んだってこれだけは手放さんといったような大事なものまでがです、ね、合楽の先生のためにそれをお供えさして頂こうということになってくる。
 しかも、その菊花石と、私はすぐそれを聞かせて頂いてから、感じたですね。神様のご都合だなあということを感じたんですけれども、ね。結局、それはどういうことになるかと言うとね、回生の喜びとか、ね、回心の楽しさといったようなものはですね、私共の心の中から1番、大事なものが育っていく。1番いけないものが捨てられていく。いわゆる我情が我欲が外れていく。
 ものの見方考え方じゃない、そのね、心が回るから、もう自然とものの見方が変わってくる。感じ方が変わってくる。今まで大事なものと思うておったものはもう大事なものでなくなってくる、ね。ここにいよいよ、人間の助かっていけれる道がそこから開けてくる、ね。そういう大変なことをです、例えば一遍お参りして来た方がです、なら昨日の渡辺先生の場合のとこの息子さんの場合でもそうである。
 一遍参って来ただけでです、そういうものが頂けたということ、ね。してみると、皆さんの場合なら、こうして毎日、信心の稽古に通うて来ておるのですから、そういうものがもっとそれは垢抜けしたものがです、身に付いていきよらなければいけない。
 ところがこれは、私をはじめですけれども、改めて、新聞を読み直さして頂いてから、大した新聞だなと初めて気がついたようにですね、私共の信心さして頂きよるどこにか盲点がある、ね。言わば焦点が違っている、ね。そこに回心のおかげになってこない、回生の喜びが頂けない、ね。
 これは新聞だけのことじゃないですけれども、もう一遍、今まで習ったことをですね、私はひとつ、復習さしてもらうというか、もう一遍書いたものを読み直してみるとか、ね、そして、大したことだということが分かったらです、その大したことをいよいよ自分のものにしていくところの努力がね、修行が必要だというふうに感じるですね。どうぞ。



明渡真